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| 座間味村 |
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| ■座間味村の歴史・文化・地形 | |
| 1 島々の成り立ち | |
座間味村は那覇から約40キロメートル西方に位置する慶良間諸島のうちの後(くし)慶良間と呼ばれる約10の島が点在する離島です。近海を航行していた昔の船人たちは、慶良間の島影をいろいろな漢字を当てて読んできています。「慶良間」という文字は、慶良間が英祖王五年(1264年)琉球王府に入貢した頃の記録に出ています。 地勢的には今から約120〜200万年前、1500〜2000メートル級の高さだった山並みが長い間の沈降によってその頂が残り、現在の地形をなしていると推測されています。 座間味島に人が住み着いたのは、散布する貝塚や遺跡から推測して今から1000年〜3000年前と思われます。座間味の先住民は古座間味に、阿佐には阿護の浦の海岸に沿って季節的にやってきて漁労を営んでいた人たちが住みついたといわれています。 |
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| 2 唐船貿易の中継地 | |
「廃藩置県」以前、琉球は唐(中国をそう呼ぶ)と500〜600年にわたり交易を続け、王国として栄えていました。渡唐船を出したり、唐からの冊封船を迎えたりして、唐の援助によって国を富ませてきました。それからの航海の中継地として座間味の阿護の浦が利用されていました。 当時の船は帆船で、航海は風まかせでした。風待ちで阿護の浦に2、3日から長い時は2ヵ月も停留したと言われます。その間に座間味の人たちも唐船の乗組員として養成され、慶良間から多くの若者が船長や船子として唐船に乗り込み活躍をしました。その実績が認められて琉球王府から租税が減税されたほどの待遇を受けていました。 |
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| 3 高良家 (国指定重要文化財) 慶留間島 | |
高良家は船頭主屋と呼ばれる旧家で、琉球王府時代末期に、公用船の船頭職を務めた仲村渠雲上が唐儲け(中国貿易)によって19世紀後半に建築したといわれています。 建築当初は茅葺き屋根で、鰹漁の景気がよかった大正年間に赤瓦葺きに改めました。 屋根の周囲はさんごの石垣をめぐらし、母屋は寄棟造り赤瓦葺きで、宅地中央北よりにあり、南向きでその前面に「ヒンプン」がたち、背後に「ウワァ―フル(豚舎・便所))」があります。 高良家住宅は屋敷を囲む石垣やヒンプンに独特な積み方がみられ、沖縄離島の民家としては建築年代が非確定古く、炊事場が母屋内にある非分棟型の民家です。 |
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| 4 沖縄県鰹業発祥の地 | |
半農半漁の島の人たちの生活は自然まかせなので、苦しいものでした。それに、明治の「廃藩置県」によって日本国の管轄に置かれ、生活はいっそう厳しくなりました。それを救ったのが、初代村長である松田和三郎で、明治34年に興した沖縄県で初めての「鰹漁業」です。その後、盛衰を繰り返しながら戦後まで続き、島の基幹産業として発展し、村を支えてきました。そしてその製品である鰹節は「キラマーカチュー」として県内外に名をはせるようになりました。 沖縄県主催の共進会等では常に一位に入賞し、「ケラマカツオ節」のブランド品として名声を高めました。しかし、残念ながら現在は後継者や鰹の餌などの減少などにより鰹漁業は行われておりません。 ※右の写真は1970年代の頃の鰹漁船「開宝丸」です。 |
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| 5 沖縄唯一の銅鉱の島 | |
| 屋嘉比島・久場島の銅山採掘についての話は琉球王国時代や明治の初めごろから出たり消えたりしていたが、第一世界大戦勃発で銅価の高騰により操業が活発になりました。しかし、設立した会社はそのあと継続操業することができず、転売・休業したりして、最終的にはサラ工業鰍ェ「慶良鉱業所」として大規模な採掘が展開され、実績も上げていたが、沖縄戦でその操業も壊滅してしまいました。その頃、屋嘉比・久場両島には約1,000人の人が住んでいました。屋嘉比島は煌々とした光に包まれた小さな島の大都会でした。そして、屋嘉比島には100名の児童が在籍する座間味小学校の分校もありました。 |
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| 6 沖縄戦米軍上陸第一歩の地 | |
昭和20年3月26日に米軍は座間味村に上陸し沖縄戦が始まりました。その目的は慶良間諸島を占領し、そこを米軍の艦船の投錨地と後方基地として使用しようとの判断でした。慶良間海峡や阿護の浦が船舶の停泊地として良好であるという高い評価はすでに明治時代に遡ります。明治26年慶良間を視察した津軽藩士が「ある軍人が言うには、敵がもし、慶良間海峡を根拠として近海を制圧すれば、防御上非常に困難になる」と国防上の役割について述べ、一旦有事の際には敵に逆用される恐れありと警告しています。沖縄戦はその見方にぴったりとはまっています。 この沖縄戦で集団自決などで約島民400名弱、日本軍約800名余り、合計1,200名が命を落としています。 |
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| 7 ケラマ鹿 (国指定天然記念物) 阿嘉島・慶留間島・阿嘉島 | |
ケラマ鹿は日本鹿の変種といわれ、体も小さく(最大約75kg)毛色も明色です。琉球国由来記によると300年前、尚氏金武王子朝貞が薩州(鹿児島)から移入されているが゜、気候風土によってわずかの年数で変種するか非常に興味がある動物です。60年程前までは、村全島に生息していたが、現在は屋嘉比島、慶留間島、阿嘉島に生息し、そのうち屋嘉比島と慶留間島については地域指定を受けている。 阿嘉島と慶留間島では昼間は山中に生息し、日暮れになると水を求めて湿地帯に降りてくる姿が見ることができます。 現在、座間味村にはおよそ200頭が棲息していると推定されています。 |
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・1955年頃の座間味 ・1955年頃の座間味 ・1957年頃の座間味 ・1955年頃の座間味 ・1960年頃の座間味 |
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